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先週の土曜は、某研究会の毎年恒例の行事の準備で北千住にいました。
で、その中でこれはというのを何枚か撮ってきたので、サクっと紹介します。
まずは、千住神社。
延長4年(926)に稲荷の神を勧請し、石造の祠を建て、千崎稲荷神社として五穀の豊作を祈願していた。
弘安2年(1279)には、氷川神社を勧請。
江戸時代初期には、千住宿の西にあるので西の森と呼ばれました。
明治6年には、千崎神社と氷川神社を合祀して、西森神社と号し、大正4年に千住神社と改称しました。
社殿と狛犬。
境内にある富士塚。
河原稲荷神社の狛犬
区内最大の狛犬だそうです。
浅草寺のとなりにある浅草神社の狛犬と同じ作風で、同じ石工の作と思われます。
千住大橋。
文禄3年(1594)に伊奈備前守忠次を普請奉行として、架けられた隅田川最古の橋です。
現在の鉄橋は、昭和2年(1927)に完成した長さ92.5mで当時としては総アーチ型という最新の橋でした。
素盞雄神社本殿。
創建は、延暦14年(795)と言われている。
小塚原・三ノ輪・下谷通新町・三河島・町屋など区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」と呼ばれています。
小塚原の刑場跡。
小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現浅草6・7丁目)辺りから移転してきたといわれています。
刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が行われただでではなく、刑死者や行き倒れ人などの死者の埋葬も行われました。
ここは、奥に安政の大獄で処刑された橋本左内、吉田松陰の墓や、坂下門外の変で処刑された志士供養碑が並んいます。
さすが、日光街道の初宿『千住』。
奥深いなあと思いました。
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で、その中でこれはというのを何枚か撮ってきたので、サクっと紹介します。
まずは、千住神社。
延長4年(926)に稲荷の神を勧請し、石造の祠を建て、千崎稲荷神社として五穀の豊作を祈願していた。
弘安2年(1279)には、氷川神社を勧請。
江戸時代初期には、千住宿の西にあるので西の森と呼ばれました。
明治6年には、千崎神社と氷川神社を合祀して、西森神社と号し、大正4年に千住神社と改称しました。
社殿と狛犬。
境内にある富士塚。
河原稲荷神社の狛犬
区内最大の狛犬だそうです。
浅草寺のとなりにある浅草神社の狛犬と同じ作風で、同じ石工の作と思われます。
千住大橋。
文禄3年(1594)に伊奈備前守忠次を普請奉行として、架けられた隅田川最古の橋です。
現在の鉄橋は、昭和2年(1927)に完成した長さ92.5mで当時としては総アーチ型という最新の橋でした。
素盞雄神社本殿。
創建は、延暦14年(795)と言われている。
小塚原・三ノ輪・下谷通新町・三河島・町屋など区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」と呼ばれています。
小塚原の刑場跡。
小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現浅草6・7丁目)辺りから移転してきたといわれています。
刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が行われただでではなく、刑死者や行き倒れ人などの死者の埋葬も行われました。
ここは、奥に安政の大獄で処刑された橋本左内、吉田松陰の墓や、坂下門外の変で処刑された志士供養碑が並んいます。
さすが、日光街道の初宿『千住』。
奥深いなあと思いました。
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